「水の棺」






(どうして。どうしてこんな目に遭うの)
 うっ、ガブッ、ゴブゴブッ。
 水で満たされてしまったバブルヘルメット内に、くぐもった嗚咽が響く。水流は圧倒的な質量をともなって彼女の気管支を駆け下った。
これまで場を占めていた空気(酸素、二酸化炭素、窒素とその他微量の混合ガス)のはかない存在感に比して、暴力と言える程の激痛をもって、
水が胸郭の底を打つ。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いそれしか考えられない。
肺胞のひと房ごとに一本ずつ針を差し込むような、鋭く激しく逃げ場のない痛み。
 酸素不足で意識喪失寸前のはずが、時間がひきのばされたようにコマ送りになる。
痛みのあまり反り返り、また胎児めいて丸くなる、自分の肉体を他人事のように眺める自分が居る。
その間にも容赦なく水が呼吸器を蹂躙し、生まれ落ちてこのかた連綿と継続されてきた呼吸機能を破壊しつつあった。



「ほんと金魚鉢みたいですね。これで潜ってダイジョブなんですか?」
「大丈夫だって! 絶対に安心してていいから。事故なんかこれまで1件も起こったことないし」
「ならいいですけど」
 ウェットスーツの上にネックシールのついた接続リングを装着し、泡めいて透明なヘルメットを胸の前に抱えた彼女は、晴れた日の海のように陰りのない笑みを見せた。


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 笑顔を隠すことがない〈金魚鉢〉は、正式には「LAMAヘルメット」と呼ばれている。
見栄えは申し分なしとは言え、初心者の域を出ない彼女にアンティークとも言えるレアな装備でダイブさせるからには、
インストラクター付きっきりで安全管理を行うのは必然で、その限りにおいては、事故など起こり得るはずがなかった。
だが、不運な出来事が連鎖した結果、進行しつつあるのは溺水への秒読みだった。

 インストラクターとはぐれ、半ばパニックに襲われて浮上しようとした彼女は頭上への警戒を怠った。突然の激しい衝撃。
おそらく、水面をゆくボートに接触したのだろう。通常の装備とは違ってヘルメットが頭部を守り、無惨な即死は避けられた。
が、頭上のウェイトを失ったばかりか、堅牢なポリカーボネイトの球体にはクラック(ひび割れ)が生じていた。
伏せたコップの底に空いた穴と同じく、クラックからはエアが細かな気泡となって水中へ逃げ出し、入れ替わりに球体内部には海水がしたたり首もとのリングを浸す。
(やだ… 水が)
 事前に教えられた通りにヘルメットにエアを注入したが、密閉されていない状態では排気バルブから水を押し出すことは出来ず、それどころか、
ヘルメット内部の気圧が高まり鼓膜が圧迫される。不快感を解消すべく、やはりインストラクション通りにあごを動かし、耳抜き(内耳の圧平衡)を試みた。
 ぽこんと音を立てて耳が楽になるのとほぼ同時に頭上のクラックから激しく気泡が噴き上がり、浸水の速度が増す。
(うそ、なんで!)
 ひび割れた〈金魚鉢〉は圧力を保持することが出来ず、エアを注入したことはクラックを押し広げ成長させる結果しか生まなかった。
BCを装着せずにハーネスだけでタンクを背負っていたのも災いした。フィンキックする余裕もなく、浮力体であるヘルメットの空気を失って、彼女の身体は次第に海底に向かって沈降してゆく。

 夏に見る涼しげな球形の金魚鉢。透きとおった水を満々とたたえて、赤や黒の金魚がヒラヒラと泳ぐ。
ヘルメットを見た瞬間の連想は不吉な予感だったのかと、今は思えてならない。
「げほっ、んくっ ごぼ… んっ はあはあはあはあ」
 ひたひたとヘルメットを満たしつつある海水は、今や口元のラインに達している。首を精一杯伸ばし、
水面に唇を突き出すようにしてかろうじて呼吸するけれど、ときに飛沫を吸い込み、咳き込んで、思うように息を吸うことは叶わない。
 せめてもう一息、胸いっぱいに空気が吸えたなら。そう願う間もなく、急速に水位を上げる水面は、唇どころか鼻孔をも浸してしまった。
(!)
 ざわり、背筋を冷たいものが走る。「絶対に安全」だったはずの〈金魚鉢〉の中で、彼女はついに呼吸出来なくなったことを悟る。
かろうじて吸い込んだ最後のひと息、それは到底満足のゆく量ではなく、早くも肺が悲鳴を上げ始めていた。
(たすけて… たす……)
 言葉に浪費できる息もなく、悲痛な叫びは脳裏にのみ響く。涙があふれ頬を伝い、わずかな距離を下っては水面に溶ける。
暖かい涙が海水に飲み込まれるのと同じく、心は容赦のない絶望に塗りつぶされてゆく。
(いや… 死にたくない…… 助けて、誰か… 誰か!!)
 増え続ける水がついに額にまで達した。
(んんっ… ん…っ)
 肺の中の、吐き出すことを求めて暴れる濁った空気を、必死に押しとどめる。のどの奥で不明瞭なうめきが漏れる。視界は水に閉ざされて、流す涙も片端から海水に奪い去られてしまう。
(くるし…… 息が出来な)
 ごぼっ。
(どうして。どうしてこんな目に遭うの)
 ごぼっ、ごぼぼぼっ。
 彼女は、最期の息を吐き出す。もはやそこには空気はなく、吸い込むものは水しかなかった。



 水位は既に頭頂部を浸そうとしていた。まもなくヘルメットの中はその外側と同じく海水が満ちて、生命を守る安全なバリアだったささやかな空間を、水の棺と化すことだろう。
 水流が髪の毛をなびかせ、ふわり、ふわり、毛先がダンスを踊る。白く光る微小な気泡がまといついて、さながら真珠のついた飾りピンのよう。
つい先ほどまでの苦悶と嵐が嘘のように、いま球体は静謐に支配されていた。
 見開いたままの双眸は海水に洗われ、ガラス玉めいて鈍い光をたたえている。力なく開いた唇は桜色の色彩を失って青ざめ、
ときおり思い出したように喉の奥から小さな気泡が、つぷり、と浮かび上がり、球体の天頂部分に向かって上昇してゆく。


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 やがて完全に水が満ちた〈金魚鉢〉。ヘルメット内部と同じく、彼女の感覚器と呼吸器官、目も耳も鼻も肺の奥底までもが全て海水に満たされて、そこには生命活動の兆候は感じられない。
 ヘルメットと胸の中の空気を失ったことで、身体はマイナス浮力に支配されている。沈降を続けた末に着底した彼女は、ぐらり、傾(かし)いでボトムに横たわり、細かな砂が舞い上がった。
 流れに運び去られて砂煙が晴れたあと、海底には四肢を力なく投げ出した彼女が残されている。グローブをはめた手、ダイビングブーツとフィンを装着した足が時折ゆらめくが、それはただ、海底を過ぎる水流にあおられているだけ。壊れたドールめいて瞳は何も映してはいない。
水に満たされたヘルメット越しに、うつろな視線はただ上方に、海面の方向に向けられている。その向こう側、空気と命に満ちた世界に彼女が戻り、笑うことはもうないのだろう。

 ゆらり、バブルヘルメットから小さな気泡が舞い上がり、それは揺れながら遠い水面に向かって消えていった。


(了)

*Special thanks to:ポセイドンさん、XenoNさん
*2014年3月(書きおろし)



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